1週間で2つのお葬式に参列して感じたこと

生活スタイル

バレンタインデーが近いというのに、お葬式の記事なんて縁起でもない、と叱られそうです。

が、人はいつか死ぬものですし、1週間で2つものお葬式に参列する機会もあまりありませんよね。

だとすれば。

死ぬ準備とか、葬式ってどんなものなのか。
そんなときに感じたことってめったにない、珍しいと思いますので、書きたいと思います。
将来に向けての参考になるかもしれません。

 

故人、そして故人の親戚や関係者のプライバシーなどに配慮し、極力具体的な描写はしないようにしたいと思います。
また、宗教や宗派(仏教の浄土宗、浄土真宗など)の違いもあり、単純な比較は無意味だったり失礼にあたるかもしれません。あらかじめご容赦ください。

 

 

 

 

 

1.2つのお葬式

 

まずは、今回参列した2つのお葬式について簡単にご説明します。

 

(1)北海道にて

 

北海道に住む親戚の葬儀です。
仏教の浄土宗です。

お通夜でお坊さん(司会は「お導師」と呼んでました)が読経され、その後、お坊さんの故人との思い出やお通夜、告別式で故人を偲ぶことの意味合いなどの法話が語られました。
ここで儀式としてのお通夜は終わりです。

その後、近い親戚だけが残り、会場の隣の和室で食事が振る舞われました。
食事が終わっても、引き続きお酒を酌み交わし、子どもたちはジュースやお菓子を食べながら、故人との思い出話や、家族、親族全体の話などを語り合いました。

しばらくすると、斎場のスタッフの方たちが布団を用意してくれました。
布団が用意されたあとも、幼い子どもたちを寝させ、それ以外のみんなは語り合いました。

普通は夜通し起きていて、ろうそくや線香の火を絶やすことがないようにする、それがお通夜なのでしょう。
私は、短時間であってもしっかり睡眠をとる必要のある持病があり、2時頃に寝ましたが、私以外もその後早々に寝たようです。

ろうそくが短く、燃え尽きてしまうおそれがあったのですが、斎場のスタッフはすでに退社しており、ぐるぐるした線香が10数時間燃え続けるものであったため、ろうそくの火はあきらめ、線香に託しました。

 

翌朝、朝食が用意されました。

しばらくして告別式。
前夜と同じお導師様の読経。法話はありませんでした。

参列者みなさんでお焼香。その後、親戚だけが残り記念撮影。

出棺の儀、火葬場へ移動。
私は飛行機の出発時刻の関係で骨上げ(収骨)まではできませんでした。

供された食事は、お通夜後の夕食も告別式の朝食も、生臭物(なまぐさもの。魚や肉)が入ってました。宗教や宗派、厳格度合いの違いにより精進料理だけの場合もあるかもしれません。

 

(2)九州にて

 

熊本の葬儀です。浄土真宗です。

故人の希望だったのか、故人の子息の考えなのか、式は簡素なものにするということでした。
お通夜は子息(子どもとその配偶者)だけで行われたようです。私や親戚たちは告別式から参列しました。

告別式はほんとに簡素でした。
お坊さんは来ず、CDで読経の音声が流れ、音声が流れている間、参列者が線香、焼香をするというものです。

それが終わったら、出棺の儀。
棺に故人が好きだったものやお花を参列者が入れ、故人に言葉をかけます。
そして、火葬場まで移動。
昼のお弁当をいただき、お骨上げ(本来、お骨揚げが正しい漢字なのかな?)を行いました。

骨壺は大きなものではなく、喉仏を入れる小さめのものでした。マグカップをイメージしていただければいいと思います。

これで終了でした。

 

 

2.感想

 

(1)簡素な式もアリ

 

2つの葬儀は非常に異なってました。

というより、後半の方が非常に簡素なもので、2つの葬儀が際立って違ってました。
私は、簡素な式もアリ、と感じました。

簡素にしたことになった理由はいくつかあると思われました。

まずは、故人の想い、あるいはそれを受け継いだ故人の子どもの考え。
葬儀が行われた熊本に住んでいたのは故人のみ。子ども夫婦は遠く離れた関西に住んでいますので、熊本のことがわからない。地縁がない。そのため、参列者も少なくならざるをえず、簡素なものにせざるをえなかった。
斎場が公営だったことから、実行できる葬儀の種類にも限度があったかもしれません。

いろいろな事情はあろうかと思いますが、故人をしのび、故人が想いを残すことなく旅立つ式になるのであれば、問題はなさそうに思えました。

 

また、子どもは一切の香典を受け取りませんでした

ふだん、職場の訃報でも「香典、供花の類は固辞されております」という文言がつくのが少なくないですよね。それでも有志で(返礼を固辞して)香典を用意したりすることはあります。
でも今回は本当に受け取りませんでした。
これもアリ、だと私は思います。

もちろん、盛大に行うこと、多くの参列者をまねき、フルスペック(という表現は不適切かもしれませんが)で行うのを否定するわけではありません。
そうではなく、簡素なものでも必要十分だと思った、ということです。

急に多大な出費が伴うのも葬式ならではです。
だからこそ、お金をかけずとも、できることはできると思いたい。

 

 

ただし、前提として、葬儀の主催者である喪主や施主、参列する人たちが故人を想い、しのぶ。その気持ちがしっかりなければならないとは思います。

 

(2)お通夜で楽しく盛り上がるのもアリ

 

お通夜で楽しく飲食(お酒も含む)し、歓談するのはアリだと思います。
人によっては不謹慎と感じる人がいるかもしれませんが。

私の菩提寺の僧侶は、「故人が逝ってしまうにあたり、家族親族、親交のあった残された人たちが悲しくメソメソしているよりは、笑顔でにぎやかにしている方が、後ろ髪をひかれることなく旅立つことができるから、にぎやかであるほうがいい」とおっしゃってます。

逆に、「あいつ(故人)がいなくなったおかげで、自分たちはこれから楽しく過ごせる」という主旨で盛り上がるのは無しでしょう。

 

(3)生臭物

 

仏事では、生臭物はダメ、という考え・しきたりがあると思います。OKという場合もあります。

これは、宗派や僧侶個人個人で違うと思います。

私は生臭ものもあっていいと思います。
植物も命、生臭もの、つまり肉や魚も命。同じ命です。

 

ご飯を食べる前に「いただきます」というのは、「命をありがたくいただきます」という意味だと聞きます。
その昔、「給食費を払っているのだから、給食前に子どもに『いただきます』と言わせるのはおかしい」と言ったというモンスターペアレントが話題になりましたが、いただきますとはその”いただきます”じゃないからね。

 

(4)棺(ひつぎ)

 

棺、いわゆる棺桶(かんおけ)。

 

小さいころに参列した葬儀の記憶です。
いよいよ故人と最後の別れ。
斎場スタッフから「これで最後のお別れです」と言われ、最後に故人と言葉を交わしたあと、釘で棺にふたをします。
その瞬間、大人たちがいっせいに泣き出しました。
「ああ、これがほんとに最後なんだな。故人は自分たちとセパレートされたんだ。それを感じた大人たちが嘆き悲しんだんだ」
と感じました。

ふたを釘で止めるというのは、残される遺族たちには残酷です。そのあと火葬され、姿は変わり果てますから。

今回の葬儀、北海道では、棺のふたを閉めるのは、釘ではありませんでした。
遺族や親類縁者が手書きのメッセージを書いた布の帯でした。
帯を留めるのもかわいい押しピン。釘よりは残されたわたしたちに優しい工夫だと感じました。

 

熊本では、そもそもふたを止める、ということはしませんでした。フタをかぶせるだけでした。
これもアリだな、と思いました。

 

 

3.宗教を学ぶ

 

若いころ、俺は無宗教でした、と主張し、そうしたいと思ってました。

大学の頃、バイト先のおじさんがキリスト教と仏教の違いを簡単な表現で説明してくれたことがありました。もう30年前のことなのでどんな内容だったかはっきりと覚えていないのですが、宗教って、信じるのは神様なのか仏様なのか、とか、新興宗教(今では新宗教と言うのかな)はいやだな、、とかそんな程度しかイメージしていなかったわたしの浅学を叩き壊されました、いい意味で。

 

宗教って生活スタイルというか、生活信条とか、そんなものに近いんだなあ、って。

さらに、比較的若い年齢で父を亡くし、葬式や法事など、施主として仏事に接することになった私は、否が応でも仏教(我が家は浄土真宗本願寺派)をわからなければならない。

お坊さんからいろいろと教わりました。

 

浄土真宗だからこそ、とも言えるのですが、他の宗派と違って比較的ゆるやかです。

生臭物やら結婚が許されるやら、俗世間の中で生きる、やら。

だからこそ、上掲した生臭物もOKということなのでしょう。

件のお坊さん、ご自身のスタイルとして「法事などでも生臭物はオッケーです。私は、最初に口につけるものは精進物、たとえば野菜などを食べますが、ふた口目からはなんでもいいんです」とのことです。

一方、このお坊さんは、法事で仏壇の前に座っていただくために敷いている座布団に座ることはせず、必ずよけて座ります。他の宗派では座布団に座っているように思います。

 

このお坊さんの姿や考え方などの話をしていると、自分の生活のしきたりと合うような感じがしてきます。

そりゃそうですよね。浄土真宗をずっと続けている祖父母から父母、彼らに育てられた私は、小さい頃からしつけとかなんとか、身についてきているわけです。

わざわざ「仏教ではこうこうなんだよ」ということではなく、自然と、です。

ここで、若い頃「自分は無宗教なのだ」と生意気言っていた自分が恥ずかしくなります。

 

学ぶ、というほど偉そうに言えませんが、葬式を通じて仏教、あるいは宗教とは何かを考えるキッカケにもなります。

それがそのまま、自分を振り返る機会になります。

 

難しく考える必要はないです。

 

 

この本↓、面白かったです。

「お坊さんも殴られたら殴り返しますか?」「死んだうちのおばあちゃんはどこへいったのでしょうか?」「一人っ子ですが、結婚したら仏壇はどうしたらいいですか」

そんな疑問にお坊さんが答えます。その説明がわかりやすく、宗教と大上段にかまえなくとも物事の考え方を見つめ直せる、かといって楽しい文章です。

 

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