この記事は、私の子どもの闘病記、家族の体験記です。私を含め、家族に医療関係者はいません。
医療に関する情報は、私の家族に起きた事実ですが、他人に同じことが適用されるかどうかはわかりません。その他、医療に関する情報は正確ではない部分がある可能性があります。この記事に関するトラブル、紛争などについて責任は負いかねます。
あらかじめご了承ください。
6月13日
その日、彼はいつものように自転車で登校した。
しばらくして、担任から妻に連絡。
「●●くん(息子の名前)がふらつき、めまいがあって、自転車では帰れないから迎えにきてくれ」と。
帰宅した息子は妻に連れられ、近くの内科へ。(耳鼻科に行きたかったが、患者が多いクリニックのため、避けた。)
MRI検査と血液採取をし、帰宅。
仕事を終え帰宅した私は、妻から事情を聞く。ぐったりしてソファに横になっている息子。
MRIの結果、異状は確認されなかったと聞く。血液検査の結果は後日。
「夕飯できたけど、食べる?」
母親から聞かれた息子は、ゆっくりと身体を起こして少しだけ夕飯を食べ、もう要らないと寝室へ。
入浴まで済ませて、寝た。
遡ること、一週間前ほど。息子は発熱。
コロナもインフルエンザも陰性だったが、ゴンゴンという酷い咳だったので、熱冷ましと咳止めが処方された。
熱は上がったり下がったり。きつそうな咳だけは続いた。
そして冒頭の、自転車で帰れなかった日に至る。
妻の車で帰宅した翌日の6月14日。
血液検査の結果を聞きに内科に行こうとするも、ぐったりした息子を連れていけないと妻が内科に申し出ると「急いで、救急車で大きな病院へ」と内科医。
→この内科医のアドバイスが後から効くことになった
救急車で大きな病院に担ぎ込まれた時、
症状は完成されていた(大きな病院の主治医談)
とのこと。
具体的には、
体を自分で動かせず、しゃべることもできず、まぶたを開くこともできず。
言葉は悪いが、植●人間のようだった。(6月17日に面会した、私の感想)
ギラン・バレー症候群、その亜型であるフィッシャー症候群ではないか、というのが、入院した日の診察や内科での検査結果を確認した結果からの主治医の診断であった。
その後、髄液の検査(髄液に菌が見つかれば感染している)の結果、異状は何も発見されない。MRIにも異状はない。
しかしながら、上記のような身体の動作ができない異変が起きている。
これは、脳幹が炎症を起こしていると考えられる、他の症状も考慮すると、ビッカースタッフ脳幹脳炎ではないか、との診断に至る。
6月17日、私と長男が面会。
主治医から丁寧な説明を聞かせていただく。
妻がこれまで聞いていた内容と同じ。
長男の次男(闘病している主人公)にかける言葉が、彼らしい。
長男らしさをこれまでも見せていたが、闘病の次男を前にして、たどたどしいが長男らしい心意気を見せてくれた。
面会後、帰宅。
いつもは3台の自転車が置いてある我が家。長男、次男、そして私の自転車。
しかし、学校から自転車で帰宅できなかった次男が入院していて、彼の自転車は学校に置いたまま。
3台から2台に自転車が減った、光景。
普通といえば普通なのだが、私には強烈な光景。
胸にするどい刺激的な痛みを感じる。
6月20日、妻が面会。
睡眠導入剤でスヤスヤと寝ていたらしい。
所在なく体を動かしていたが、この日は睡眠薬で落ち着いていたらしい。
これまで栄養は点滴だったが、鼻からに変わるらしい。
また、脳波を測定したところアルファ波が出ていていたとのこと(良好)。
免疫グロブリン療法5日間が終わったので、今後はステロイドの治療に変わる。
6月21日
診断が出て以来ずっと、妻も私も、懸命にこの病気のことを調べる。
治るのか治らないのか。
治るとしても後遺症や障害が残ることもあるらしい。どれくらいの割合で残るのか、どんな障害が残るのか・・・。
難病なので、情報量の少ない病気だが、私の会社の産業医からの貴重な情報。(正確には、うれしくなる情報)
産業医曰く、小児科をしていた頃、ギランバレー症候群を数例担当したとのこと。いずれも完治しているとの情報。
10年以上前から治療法は確立している。治療者からすれば、治療法も確立しており、何がどうなってこのような症状が起きている、ということがわかっているが、ご家族から患者の様子を見ればとても不安になることは理解できる。安易に「大丈夫」とも言えない。しっかりやることだけやる。医者に委ねるということでいいのではないか。
こういう話だった。
この日、病院から妻に連絡。現在の病室から集中治療室に移す。容体が悪くなったということではないらしい。
新型コロナの感染がゆるやかに増えていることや、集中治療室の方が管理しやすいということらしい。だとしたら、こちらの望みでもある。
ただ、集中治療室の場合、面会が基本的にNGらしい。面会だけはOKでお願いしたい。
集中治療室で、面会も無し。その方が、回復が良好に進む、確実に回復させることができる、というのなら、そちらを優先し、我慢することもやぶさかではない。
だが「集中治療室は面会なし」が、ただの原則論なのであれば、面会だけはお願いしたいところ。
6月22日
面会OKとの判断を病院からいただいた。ただし、ガウンのようなものの着用が必要になるとのこと。
それはもちろん受け入れる。
6月24日
妻と私、面会。
キャップ、ガウン、手袋を着用しての面会、15分のみ。
今回が、妻と一緒の面会が初。妻の息子に語り掛ける様子や、手、指を握る、脚をさする様子を見て、たまらなくなる。
母親とはこうなのか、と。
数日前、妻は機種変して、使わなくなっていた古いスマホ(iPhone)を取り出していた。
「ルーターのパスワード、なんだったっけ?」
「なんで、そんなこと聞くの?」
「ちょっと音楽をダウンロードして使いたいと思って」
何に使うのだろうと不思議だった。
この面会で理解した。
ベッドの上の次男、彼のパジャマのポケットにはスマホ、イヤホンは彼の耳にはいっていた。息子の耳は機能しているのか、イヤホンからのことを聴けているのかまだわからないのだが、それでも彼に音楽を聴かせようと妻は看護師に依頼し、つけてもらっていたのだ。
次男のスマホ(Android)はパスコードがわからないため、開けない。だから彼が本当に聴きたい音楽が何なのか、わからない。それでも、だめもとで音楽を聴いてもらおうというのだ。
彼女の行動に、思わずこみあげてくるものがあった。
彼の指は、以前よりつやつやしているように感じた。
熱があったからなのか(彼は、体温が上がったり下がったりしているらしい)、それとも以前よりも回復に向かっているのか、まだわからない。
主治医はおらず、看護師もまだわからない、とのこと。
6月26日
妻からLINE。
医師(主治医ではない)からの連絡、
- 眼球が少し動いてきた
- 口が「ま」という感じに開いてきた
- 峠を越えてきたのではないか
との説明だったらしい。
まだ気は抜けないが、前進したととらえたい。
7月1日
面会。
こちらの問いかけにうなずく、手を握り返す、唇が動く等ができるようになった。看護師も回復ぶりを話してくれていた。昨日の夜勤時、元気になったねと話しかけたら、「うん」と答えたらしい。
7月3日
妻が面会。
一文字ずつだがしゃべるようになったとのこと。
模試の結果について知りたいという欲求が強かったとのこと。(息子は高校3年生の受験生)
「パスワードがわからないから、後日」と妻が伝えたら、それまでにない大きな仕草で否定をしたとのこと。まだまともにしゃべれない状態ではあるが、試験勉強にタウする執念や、高次なレベルの脳反応が蘇ったということではないか。そう好意的に解釈したい。
7月8日
長男と一緒に面会。
空いている個室を使って面会。車椅子に座っている状態で。振り絞りながらしゃべってくれるという印象。痛いということはないらしい。
入院直後、夜中までずっと脚をバタつかせていて、脚や足の指に傷が絶えなかった。今は落ち着いていて、新たな怪我はしないが、その頃の傷はまだ痛むとのこと。
ゼリーを自分で食べられるようになった。液体はダメらしい(嚥下できない)。
この面会直前に、彼からLINEが届いた。LINEを送れるようになったということ。
そのLINEには、病室にテレビを観られる環境を作りたいので、接続ケーブルなどを買ってほしい、というもの。勉強のための映像や、彼の大好きな自転車のロードレースを観たいという欲求。
7月22日
ハンバーガーを買って、彼に差し入れ。病院食は食べられるようになり、もっと食べたいらしい。食欲が戻ってきたようだ。
彼にいろいろ聞く。意識が戻ったのが6月二十何日あたりとのこと。入院から10ほど経過した頃ということになる。
妻が「時事ネタをしゃべるといいらしい」(昏睡していた、意識がない状態で数日経た状態で、新しい情報を知ってもらうなどの意味があるらしい)とのことで、彼がまだ反応しないながらも、プリゴジンやワグネルの話をした(6月24日)と彼に話すと、それは覚えているとのこと。なので、6月24日には意識が徐々に戻り始めたのであろう、と予想される。
救急車で運ばれたのは覚えているとのこと。
7月31日
リハビリのため、別の病院へ転院。
8月14日
リハビリの病院から退院。
日常の行動はほぼ問題なくできるようになった、自転車で右に曲がるのがぎこちないのでそれだけは要注意、というのが退院時の医師からの説明。
入院からほぼ2ヵ月で退院。
り患前と比較して、本人および我々家族が感じる障害やできなくなってしまったことはない、と感じるほどに回復した。
唯一、り患前と変わったのは、彼の発言が積極的、時には少々攻撃的を感じるほどになったということ。
「大学受験に合格したら●●を買ってほしい」
とか、テレビクイズ番組を観ていて、回答を答えたりとか。
こちらから話しかけないと答えることってあまりなかった彼が、積極的に話をしたり、自分の希望を主張したり・・・。
彼にそのことを話すと。
「それは自分でもわかる。自分は一度死んだようなもの。言わないで後悔するよりは、何でも言おう、話そう、という意識になった」
とのこと。
ビッカースタッフ脳幹脳炎という病気は、人によって症状が強かったり弱かったり、障害が残ったり、うちの子どものように(少なくとも、現時点では)残らなかったり。
うちの子どもや家族にとっては、得られるものが多かった。
リハビリの病院から退院して、約7ヵ月。
彼は無事高校を卒業できた。回復が早く、欠席日数も少なかったため、間に合った。
そして、第1志望の大学に合格することができた。
最初に病床で見た彼の姿から、とても予想できるものではなかった。
本人の頑張りはもちろんだが、家族、病院、高校の先生他、みなさんに助けていただいたおかげ。
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