海の日を含む三連休は、実家に帰省しました。
実父の七回忌です。
私は、父の長男、しかもその父が本家ですから、私が嫡流というか、本家を継いでいるわけです。
実家に残している母が準備をしてくれていて、いわば私は、法事を取り仕切る「代表」的な存在として、帰省し、お経をあげてくれる僧侶、そして参列してくれる親戚たちにご挨拶する、というのが、私の役目です。
その法事の日に、公役(くやく)という予定がはいりました。
公役とはいわばボランティア活動。
年に一回行われている、山道の草刈(やぶはらい、と方言で言います。薮を払う、という言葉です)です。
公役が朝7時から11時頃まで。
法事が10時から、のため、時間的に重なります。
が、公役が公であるのに対し、法事は私事。
そこで、公役を優先し、法事には途中から合流しました。
お経が始まった10時の時点で、私はまだ草刈の作業中。
作業をしながら、久しぶりに会う故郷のおっちゃんらとコミュニケーションを交わしながら、
“法事と公役が重なったのは、偶然だったのだろうか”
と、しょうもないことをぼんやり考えてました。
そういえば、うちにいつも来てくれる僧侶。
いつも「縁」ということを話してくれてました。
調べてみれば、「縁」とは、仏教にとってとても大事な概念、考え方、ことばなんですね。
めったに会えない地元の人たちとの交流、そして法事も、頻繁には会えない親戚たちとの久しぶりの再会の場でもあります。
結局、私の考えは、
「公役も法事も、縁がめぐりあわせた機会」
というものに至りました。
このことを、法事後にとりおこなわれた「おとき」(私の地方で、法事の後で飲食する場のことを表現する言葉です)の冒頭の挨拶で述べ、また、僧侶にも話をしてみました。
僧侶いわく、まさにそのとおりではないか、とのこと。
公役の日程は、二転三転してこの日に決まったそうですが、それが法事と重なった偶然、そして、私がいつもは会えない人たちと久しぶりに交流できた機会、これは縁だ、と。
仏教で言うところの縁、いわば、自分の手ではどうしようもならない仕組みを、僧侶は例えて
生まれてくる子どもは親を選べないように、縁は、自分にはどうにもコントロールできない、それでいて驚きに満ちた世界
といった表現をしていました。
加えて、今日はいい日だったね、と言ってくださいました。
公役はすごい重労働で、前日からの体調不良も重なり、大変しんどい一日でしたが、いいものを学び、得られた一日でした。
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